父の死に様
新垣です。これまでに雑誌に掲載された私の記事を紹介します。
これは2020年2月に亡くなった父についての記事。「俺は納豆たくさん食べてるから死なないな」と不思議な自信で話していた父が、白血病を発症してから2か月で、あっという間に亡くなりました。死に様が彼らしい、そんな気持ちで書いたものです。
父の死に様
昨年末、父が急性骨髄性白血病による高度の貧血で倒れました。私は、これまで身内が大病に倒れるという経験をしたことがありませんでしたが、父が緊急入院したことで突如、急性骨髄性白血病患者の家族という立場になりました。 私は産婦人科医であり、血液内科のことは国家試験で勉強したきり。ですから急性骨髄性白血病と聞いても、とにかく重症そうなこと、夏目雅子がかかった病気、という程度しか頭に浮かびません。治療方針や予後、今後の症状経過などのイメージがわかないため、病名を聞いた後にまずしたことは、病名をインターネットで検索するという、一般の人とほとんど変わらない行動でした。ググってわかったことは、76歳という高齢では骨髄移植はできないこと、抗がん剤が効く可能性も低いこと、そして抗がん剤は行わず、輸血や抗生剤などの対症療法のみ行うことも考慮されるという、主治医が話されたことそのもので、桜が見られない可能性もありますという主治医の言葉が胸にささりました。
父はこれまで本当に元気で、まともな病気にかかったことがありません。趣味は囲碁とパークゴルフと山菜取りで、春と秋には山に出かけ、どっさりと山菜を届けてくれるのでした。常に何かの活動をし、退屈知らずの76歳でした。搬送時は、動けなくなるぎりぎり手前で救急車を自ら要請し、親戚知人には「しばらく刑務所に入ってくる」と、入院を分かりにくい冗談で表現していたそうです。 そんな元気な父でしたから、予後は数ヵ月かもしれないという現実は受け入れがたく、自分は必ず治ると信じていました。そのため、積極的な治療をしない選択肢は眼中になく、迷わず抗がん剤治療を選んだものの効果はなく、2月には芽球の割合が上昇し、免疫低下により肺炎を発症しました。 2月初旬の金曜日、肺炎による呼吸苦から「俺は今日死ぬ、俺には分かる。遺言書を見にこい」と朝5時にメールが入りました。急いでかけつけると、紙に書かれた遺言を私に伝え、「人生悔いなし」ときっぱり言いました。その後も近しい人全てに「今日死ぬ」と自ら連絡をしたため、病室は午前中から見舞客がわらわら詰めかける騒動となりました。が、予想は外れてその日は死なず、「おかしいな。生前葬儀しちゃったみたいだな」と自嘲していました。それでも、もって2、3日ということは予想ができたため、3日後の父の誕生日までがんばろうと励ましましたが、誕生日の前日に息を引き取りました。入院してから54日、一度も退院できずに迎えた死でした。
これまで父とはそれほど仲が良いわけではありませんでしたが、父が入院してからは頻繁に見舞いに行き、顔を合わせました。こんなに父に会うのは私が小学生の時以来です。今までになくいろいろなことを話し、父の考えを知ることができました。また、とにかく退屈で仕方ないと愚痴るので、レンタルのDVDや漫画を借りて届けました。漫画は、ボクシングを題材とした「はじめの一歩」をえらく気に入り、入院していた1ヵ月半で102巻まで読みました(127巻まで刊行されています)。囲碁が大好きで、入院中に打つ相手がいないのが寂しく、病院に囲碁サークルを作れないものかと無茶なことをつぶやいたこともありました。輸血後でもヘモグロビンが7しかないのに、本当に活動的な人でした。
父の病と死は悲しいことではありますが、少し良いこともありました。疎遠だった親戚や実家の近所の人々に再会し、親交を深めることができましたし、慣れない喪主を務める私に優しい声掛けを頂き、いかに周りに助けられていたかを感じることができました。また、私自身が重症患者の家族となったことで、その立場から病院を眺めることができたのも貴重な経験でした。家族がどんなことで不安を持つのか、看護師さんの笑顔や丁寧なケアにどれだけ心が癒されるかなどいろいろなことを実感し、今後の医者人生に役立つ体験となりました。
今、父の遺影近くには切り花の桜が綺麗に咲いています。今頃きっと天の桜の下で、お酒を飲みながら囲碁を打っているはず。こんな想像が、私の心をほっと癒します。父さん、またどこかで会いましょうね。」 (令和2年4月1日 北海道医報 第1219号)